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マリリン・モンロー|時代を生きた女たち#136

目を細めた独特な表情もモンローウォークも、計算し尽くして演じた官能性だった。頭のいい女性で、どうすれば自分を魅力的に見せられるかを知り尽くしていたのだ。
年齢を重ねるにつれて、演技派女優を目指したが、それは世の中に求められない。報われない思いは異性に向けられたが、それも遠のいて、悲劇の結末が待っていた。

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マリリン・モンロー ●1926〜1962年
 

今なお魅力を放ち続ける、危うげなハリウッドスター

マリリン・モンローといえば、チャーミングな垂れ気味の目元を細め、赤い唇を少し開いて、顎を上げた表情を思い出す。豊かな胸がこぼれんばかりのドレスで、後ろ姿はモンローウォーク。腰を微妙に振る歩き方は、ハイヒールの片方の踵を、わずかに低くしてあったという。

映画の役どころは、セクシーだけれど知性的ではない女性。当時、そんなスタイルで、多くの男性ファンの心をわしづかみにした。その一方で、知識階級からの蔑視もつきまとった。

本当のマリリンは努力家で、乱読ながら読書家だった。記者会見で「何をまとって寝るのか」と質問されて「シャネル・ナンバー5」と答えたのは、あまりに有名だ。モンローウォークについて聞かれたときには「生後6ヶ月から、この歩き方」と答えた。それを、周囲から仕込まれた回答と見る向きもあったが、とっさに、そう答えられるだけの頭の回転の速さも持っていた。

不幸なおいたちゆえに、並外れた寂しがり屋でもあった。父親はマリリンを認知せずに去り、母は心を病んで、マリリンは祖母や知人の家を転々として育った。親のない子どものための施設で暮らした時期も長い。

幼いころは「さやにんげん(ヒューマンビーンズ)」と呼ばれるほど痩せていたが、10代に入ると胸のふくらみが目立ち始め、男子生徒たちに好意を寄せられた。

16歳のときに5歳上の先輩、ジム・ドハティと結婚。ジムは元生徒会長で、航空機メーカーで働いていた。だが太平洋戦争の最中で、海軍に徴兵され、遠い戦地へと送られた。

夫の留守中、マリリンは航空機の塗装に携わった。そこに陸軍報道部のカメラマンが、軍需工場で働く女性たちを取材に来た。そしてマリリンはモデルとしての資質を見出されたのだ。

もともと映画女優を夢見ており、20世紀フォックスと契約。本名のノーマ・ジーンを、芸名のマリリン・モンローに改め、茶色の髪をブロンドに染めた。さらに「新人女優が既婚ではまずい」と、20歳でジムと離婚。

たちまちピンナップガールとして頭角を現した。現在のグラビアアイドルだ。だが映画には出たものの、端役ばかり。いわゆるハリウッドの正統派美人ではなかったし、演技力もなく、歌も踊りも下手だったのだ。

下積み時代に50ドルでヌード撮影に応じたが、人気が出てから、これが問題になった。映画会社は「しらを切れ」と厳命。だがマリリンは押しかける取材記者たちに「お金が必要だった」と事実を認めた。

貧しい生まれ育ちや、母親の心の病も暴露されたが、これが、むしろ追い風になった。自力で底辺から這い上がるアメリカンドリームの人として、賞賛を浴びたのだ。

27歳で雑誌『プレイボーイ』創刊号の表紙モデルを務め、『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』で、立て続けに主演女優の地位を確立した。

そのころジョー・ディマジオと出会った。野球選手という力のイメージとは裏腹に、ダークスーツに身を固めた穏やかな紳士で、たがいに惹かれ合って結婚に至った。

ジョーは日米野球で来日したことがあり、日本人に絶大な人気があった。それを新妻に自慢したくて、新婚旅行先は日本を選んだ。しかし羽田空港に着いてみると、妻のほうが熱狂的に迎えられた。マリリンは痛々しいほど夫に気を使ったという。

当時は朝鮮戦争が休戦に入ったばかりで、朝鮮半島にはアメリカ軍が駐留していた。その慰問の誘いがあり、もともと軍需工場で働いていたマリリンは快く応じ、新婚の夫を日本に置いて単身で海を渡った。

厳冬期の氷点下ながらも、慰問は屋外コンサート。舞台前から遠い丘の斜面まで、ぎっしりと兵士たちが地面に座り、マリリンは細い肩ストラップの、からだにフィットした薄手のドレス姿。白い息をはきながら「バイ・バイ・ベイビー」などを歌って大喝采を受けた。

遠く祖国を離れた若い兵士たちのために歌い、それに応えて、兵士たちは好意を示した。生涯、みずからの献身と、人から求められることを至上の喜びとしたマリリンにとって、このときの経験は最高の思い出となった。

だが夫のジョーは嫉妬深く、肌をあらわにした妻に激怒した。

帰国後に撮影した『七年目の浮気』に有名なシーンがあった。地下鉄の通気口から吹き上がる風で、白いスカートが派手にめくれ上がり、マリリンが慌てて押さえる場面だ。この撮影現場にジョーが現れて、また激怒。

夫婦喧嘩は激しさを増し、とうとうマリリンは暴力を振るわれて、2度目の結婚生活は9ヶ月で破綻した。

ニューヨークで演技を磨く

マリリンは常に演技力不足を気にした。努力はしていただけに、少しでも批判されると、現場で泣き出した。

そのため28歳で、西海岸のハリウッドから東のニューヨークに移り、俳優志望の若者たちに混じって、アクターズスタジオに通った。年齢を重ねても女優を続けられるように、本格的な演技派を目指したのだ。

知性への憧れから、劇作家のアーサー・ミラーと3度目の結婚に踏み切った。だがアーサーは11歳下の妻に振りまわされて、作品が書けなくなってしまった。

マリリンは昔から子ども好きで、母親になりたかったが、2度の流産を経て、夫婦の心は離れていった。

30歳を過ぎてハリウッドに戻って女優を再開したものの、このころから撮影現場への遅刻や、すっぽかしが目立つようになった。

メイクに手間取り、気持ちの上でもマリリン・モンローになりきるために時間を要したのだ。今なら引きこもりに近い感覚で、人前に出る葛藤があったのだろうと想像がつくが、当時は単なる気まぐれと見なされた。

34歳ころから、マリリンの不倫が噂されるようになった。相手はフランスの人気歌手で、映画で共演したイブ・モンタンや、大統領就任前のジョン・F・ケネディ、その弟で後に上院議員になったロバート・ケネディなど。

特にジョン・F・ケネディは女性関係が派手で、マリリンは遊び相手の1人にすぎなかった。でもマリリンの方は、いつも恋に真剣だった。さらに大統領に就任すると、マリリンは兄弟のどちらからも邪険にされた。

30代半ばで夫のアーサーが書いた『荒馬と女』に出演したが、結局は離婚。興行的にも失敗し、映画会社からは契約を打ち切られた。マリリンは「誰からも必要とされない」という哀しみを深めていった。

36歳の夏の未明、何も身につけていない状態で、自宅のベッドで息絶えているのが発見された。

検死に当たったのは、日本人医学博士のトーマス野口。彼は詳細に遺体を調べ、睡眠薬の大量摂取による自殺と診断。その正確さや誠実な仕事ぶりが認められたのだろう。以降、幾多の有名人の検死官を務めた。

しかしマリリンの友人たちは自殺を認めたがらないし、マスコミは事件性を疑って派手に書き立てた。

その2ヶ月半前、ニューヨークの巨大アリーナ、マディソン・スクエア・ガーデンで、ジョン・F・ケネディの誕生会が盛大に開かれた。そのときマリリンは舞台に呼ばれて立ち、吐息のような声で「ハッピーバースデイ・ミスタープレジデント」と歌ったのだ。
その影響で、ケネディ兄弟やマフィアによる殺害説までささやかれた。

生涯、マリリンは物欲が薄く、宝石にも服にも家にも興味を持たなかった。ひとえに愛を求めて生きたのだ。

参考資料/山口路子著『あなたの繊細さが愛おしい マリリン・モンローという生き方』、亀井俊介著『マリリン・モンロー』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『家康を愛した女たち』(集英社文庫)。
https://note.com/30miles

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